すべて嫌いならどうだっていい

「たとえば、笑いあう日々なんて、このオッサンの指さき、みたいなものだよね」
そう言って、大きく赤い文字で『国民が第一』と書かれ、すっかり色褪せ剥がれかけた選挙のポスターに視線を預けながら、ひとり薄々と笑いあった。
「大切な事ってさ、色の剥がれた靴のつま先を黒く塗りつぶしてみたり、箪笥のうらがわでさまよっている綿埃を掃除機で吸いあげてみたり、卵を割るときに殻が入らないか、醤油のパックをうまく破けるか、だとかそういったことだと思うのだよね」
コンクリートの裂け目から生えている、たんぽぽだか、ただの雑草だかよく判らない草を、踵で左右に擦るようにして踏みならしながら、できるだけ感情を底のほうに沈めようと、早口で捲したてるように話しかけた。
彼女は携帯電話のスクリーンに夢中で、まったく何も聞こえていない、我関せず、といった様子だ。
トントン、とつま先を鳴らして、靴裏につまった泥をはらうと、見上げるほど高い位置にあるガードレールに登り、彼女から数えて、三人目の位置に腰をおろした。
「自分にはまったく関係ないって顔をしているけどさ、三秒後には僕に愛想を尽かされているかもしれないってことを、思ったりしないのかな。それとも安心しているの?興味がない?無思想だから?偽善は嫌い?」
沈黙は金なりってわけか。外套のポケットに手をつっこんで、手のひらからぎりぎり溢れないくらいの小銭を取り出した。
「なにか、飲む?」
「コーラ」
言うべきときには口をひらき、欲しいものには声をあげる。悪くないね。そういうところは嫌いじゃない。
身をひるがえすようにして、ガードレールから飛び降りると、道路をひとつ挟んだむこう側の自販機の前へ行き、コーラと微糖とかかれたコーヒーのところで、それぞれのボタンを押し、再び道路を横断した。
左側のポケットにコーラ、右側に缶コーヒーをそれぞれ押しこんで、ガードレールを手で掴んでよじ登ると、今度は「一人目」の位置に腰をおろした。
画面からまったく視線を動かさない彼女に、真っ黒に煤けた手でコーラの缶を取り出し、少しだけ上下に振って手渡した。薄灰色の雲がちぎれて、次から次へ、びゅんびゅんと流れ去ってゆくのを目で追いながら、缶コーヒーをひと口飲んだ。
ほどなくして、舌打ちするおとが聞こえてきた。手の甲に散った茶色い飛沫を、真っ赤な舌が舐めとるのを見ていた。
ああ、この瞬間にダンプカーが突っ込んできたなら、彼女はコーラで、僕はコーヒー。僕は彼女で、彼女は携帯電話。そして、僕らはいちころ。――春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、云々――赤い舌を吸った。
ごうごうと、近づいてくる音を背後に感じながら、最後のコーラは、苦いミルクの味がした。