言葉を埋葬して、月へ

道づれを求めて、誘うことばを探していたのだろうのか。鏡の前で踊りつづけるのは苦痛だ。それが、自分の目にしか映らないのは、滑稽な悲劇だ。
一輪の花のような、花束のようなことば。温かいスープのようなことば。立ち昇る煙に似た。やわらかい手のひらのようなことば。精密な機械のような、澱みなく流れる音楽のようなことば。旋律。
温度のない、影のない、いろや、風や、街のないことばには、どんな場所が似合うだろうか。
言葉を埋葬して、月へ行こう。

夜、散歩する

駅へ、帰り道を歩いていた。夜の緩まった寒さに、ふらりと何処か寄り道をして、腹を満たして帰りたい気分になった。
そんなときによく立ち寄る店があり、理由は、店の古さが呼吸に馴染むからだ。そうして、今日もその古ぼけた暖簾をくぐり、ホルモン定食を頼んだ。ひとりで食事をするときの店内は景色だ。奥の棚に見える風邪薬ばかりが詰まった薬箱を眺めながらホルモンを噛み、冬の終わりのことや、読んでいる小説のことについて考えていた。
「この歳になると、食べることくらいしか愉しみがなくなってきてね……」
誰かが昔つぶやいていた言葉をふと思い出す。私の愉しみは何だろう――煙草やいろいろのことをやめたけれど、それが何に変わっただろうか――手帳を開いた。予定はなかった。欲しい物リストには「アコースティックギター」と「コーヒーメーカー」とあった。
飲み込む要領を得ずにホルモンを噛み続けていると、鍵を職場に忘れたことに気づいた。寄り道はするものだ。しかし、来た道をもう一度戻らなければならない。

店を出ると、夜風が心地よいつめたさをふくんで吹いていた。来た道を戻り歩いていると、そのまま散歩をしたい気分になり、暗がりに誘導されるように道の奥まったほうへと曲がって行った。平日の路地裏は、眩しさのない明るさにみちていた。煙やいろいろな食べ物の匂いが溢れていた。いつの間にか、私の前を老夫婦が歩いており、何処かで食事をして帰っている様子で、「おいしかったわね」だとか、そんな会話が聞こえてきた。どことなく、互いが互いの方に傾いているように見えた。ほんとうに他愛のないことを何も気にせずに誰かに話したのは、いつだっただろうか。そもそもそんなことがあったのだろうか。ああ、足りない、足りない。急に、温度のないがらんどうの空間の中を歩いているような気がして、温かい飲み物が欲しくなる。灯りをめがけて歩いていると、子どもの居ない小学校で、大人達が明明とライトを照らしてサッカーをしていた。校庭の砂を踏みたくなって近くまで行ってみると、何だかライトが白々しく、異様な眩しさをしていて、学校の中に入る気が失せてしまった。やはり夜歩くのは、夜道にかぎるようだ。小学校から遠ざかるにしたがって、今度は夜道にぬくもりのようなものを感じはじめていた。ただ歩くことも、どこか変われば、それは散歩になる。そうやって、歩いていているうちに、とりとめのないことをただ書いておきたい衝動に駆られた。ペンも灯りも何もなかった。携帯電話は電池が切れて、ただのつめたいプラスチックだった。しかし、散歩はよいな、よし、帰ったら手帳に記しておこう。いや、何か別の場所がいいかも知れない。場所があって、ひとがいる。場所があれば、そこが居場所だ。
家に帰り着くと、屋根の上にはオリオン座が瞬いていた。

すべて嫌いならどうだっていい

「たとえば、笑いあう日々なんて、このオッサンの指さき、みたいなものだよね」
そう言って、大きく赤い文字で『国民が第一』と書かれ、すっかり色褪せ剥がれかけた選挙のポスターに視線を預けながら、ひとり薄々と笑いあった。
「大切な事ってさ、色の剥がれた靴のつま先を黒く塗りつぶしてみたり、箪笥のうらがわでさまよっている綿埃を掃除機で吸いあげてみたり、卵を割るときに殻が入らないか、醤油のパックをうまく破けるか、だとかそういったことだと思うのだよね」
コンクリートの裂け目から生えている、たんぽぽだか、ただの雑草だかよく判らない草を、踵で左右に擦るようにして踏みならしながら、できるだけ感情を底のほうに沈めようと、早口で捲したてるように話しかけた。
彼女は携帯電話のスクリーンに夢中で、まったく何も聞こえていない、我関せず、といった様子だ。
トントン、とつま先を鳴らして、靴裏につまった泥をはらうと、見上げるほど高い位置にあるガードレールに登り、彼女から数えて、三人目の位置に腰をおろした。
「自分にはまったく関係ないって顔をしているけどさ、三秒後には僕に愛想を尽かされているかもしれないってことを、思ったりしないのかな。それとも安心しているの?興味がない?無思想だから?偽善は嫌い?」
沈黙は金なりってわけか。外套のポケットに手をつっこんで、手のひらからぎりぎり溢れないくらいの小銭を取り出した。
「なにか、飲む?」
「コーラ」
言うべきときには口をひらき、欲しいものには声をあげる。悪くないね。そういうところは嫌いじゃない。
身をひるがえすようにして、ガードレールから飛び降りると、道路をひとつ挟んだむこう側の自販機の前へ行き、コーラと微糖とかかれたコーヒーのところで、それぞれのボタンを押し、再び道路を横断した。
左側のポケットにコーラ、右側に缶コーヒーをそれぞれ押しこんで、ガードレールを手で掴んでよじ登ると、今度は「一人目」の位置に腰をおろした。
画面からまったく視線を動かさない彼女に、真っ黒に煤けた手でコーラの缶を取り出し、少しだけ上下に振って手渡した。薄灰色の雲がちぎれて、次から次へ、びゅんびゅんと流れ去ってゆくのを目で追いながら、缶コーヒーをひと口飲んだ。
ほどなくして、舌打ちするおとが聞こえてきた。手の甲に散った茶色い飛沫を、真っ赤な舌が舐めとるのを見ていた。
ああ、この瞬間にダンプカーが突っ込んできたなら、彼女はコーラで、僕はコーヒー。僕は彼女で、彼女は携帯電話。そして、僕らはいちころ。――春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、云々――赤い舌を吸った。
ごうごうと、近づいてくる音を背後に感じながら、最後のコーラは、苦いミルクの味がした。

ジンジンギター

昔々の話。ギターを弾きながら、歌のようなものをつくって、カセットテープレコーダーにひたすら録りためていた時期があった。
テープを止めて、巻き戻し、再生する。そこから流れてくるのは、私の頭の中の感覚とはまったく別の、ひどい音だった。リズムはガタガタで、ペコペコしたギターの音と素っ頓狂な声。どこか聴いたことのあるメロディの繋ぎ合わせ。誰に聴かせるわけでもないのに、気恥ずかしく、自慰行為の後のような、どこか後ろめたい心持ちがした。
それでも、自分の中から他人のものが出てくるような感覚は新しく、楽しくて、しばらくの間、夢中になった。
今では思い出せないが、私にとって、その行為のほとんどは憧れから来るものだったのだろうし、麻疹みたいなものだったのかもしれない。或いは寂しさだろうか。創りつづける人は、音もなく創り続け、やめてしまう人は、声も出さずにやめてゆく。
あの頃の私は、一体何にふれたくて、何をふれようとし、何にふれて欲しかったのだろう。
最近になってまた、思いついたようにギター取り出しては、弾くようになった。弦を押さえる指先が、しだいに、ジンジン、ジンジン、と痛みを思い出しはじめる。ふれることは痛いのだ。間を置くと、少し痛みが引き、また弦にふれたくなる。自分の出したどうしようもない音に耳を傾ける。普段、音楽を聴いているのとはどこか違う。耳を傾けなければ聴こえてこない音。誰も聴かない、誰にも届かない音。
綺麗なものをガラス瓶に詰めて、けしてふれることなく、外側から眺めては、ぬるくて、甘いため息を吐く。痛くないから、心地良いのだ、まるで夢のようではないか。
 今、私がふれているものはなんだろうか。
時折、私を急きたてるように、指先が、ジンジン、ジンジン、と騒ぎだす。

かいわ

最近、何かひとつの物事に対して、手放しで賛成したり、楽しんだり、喜んだり、糞を投げつけてみたり、ということができなくなってきている。必ずと言っていいほど分裂した自己が現れる。
分裂した自己は、そのほとんどが、他者の考えであり、他者の目である。
こうして、今、この文章を書いている、今、に至っても首を傾げている自分がいる。そして、私にとって、自己の分裂を防ぐ唯一の方法が、その場で感じたことを、「そのまま」言葉にして、外に出しておくことだという思いが強くなっている。その瞬間に感じた自己を否定するのは、自己を失うことに繋がりかねない。自己を失うことは、すなわち、他者をも失うことだ。
あらゆる場面で、立場を選択させられる。先に立場をハッキリさせた上での物言い、考え、疑問は、向こう岸に立てば自分を突き刺す刃となる。ときどき、立場の選択にうんざりする。何がどうなって、どこがではなくて、ただ「おいしい」とだけ言えることは大切な事ではないだろうか。

 会話が減っている、どうしようもない会話が減っていっている。

 物言わぬ口の裏側で、豆粒ほどの感情がすり減っていっている。

ストーリーからこぼれる会話が人生を作るのだ。
(ここに消えない会話がある/山崎ナオコーラ) 

 会話は沈黙であってもよい。

記憶と喪失

過去の「喪失」について思いを巡らせていると、いつも同じ場所に辿り着く。

小学校の高学年まで住んでいたアパートのことだ。小学生の頃、毎日一緒に遊ぶような一番仲の良い友達は、きまって一年足らずで引越していった。だから、雪が溶ける頃には、また「行く」のだろうと、幼いながらにも、自然と寂しい心持ちになるのだった。

「引っ越すんだ」
ある日、突然告げられる。
幼い私にとって、喪失の傷を癒す魔法の言葉は、
「忘れないからね、また逢おうね」
それで十分だった。

ある年、同じように、毎日一緒に遊ぶ友達がいた。友達は、私と同じアパートに引越してきた。母親はいなくて、父親と弟二人の四人で暮らしていた。夏休みになると、友達兄弟三人と、虫を採りに行ったり、缶蹴りをしたりして、毎日、日が暮れるまで遊んだ。

夏休みが終わると友達の家族は居なくなっていた。お別れの言葉も、傷を癒す魔法の言葉もなかった。
今でも、思い出すたびに、モノクロームの夢のような、影のような存在として、私の記憶の中にゆらゆらと漂い続けている。そして、私はときどき、諦めてしまう理由を、その影の存在の中に探してしまうのかもしれない。

「犬の記憶」を辿っているうちに、ふと、そのアパートをに行ってみたくなって、今日、足を運んでみようと思った。

犬の記憶 (河出文庫)

犬の記憶 (河出文庫)

見上げると、上空には、真っ黒い鳥が覆いかぶさっていた。

その巨大な翼には裂け目があり、左の裂け目からは過去が、右の裂け目からは未来が、
それぞれ、
こちら側をギョロリと覗いていた。


ぼくは、いちばん長く、そして、いちばん醜い指先を、左の裂け目に突っ込んで、

壺の底を這いずり廻る蟲のように、

わずかにへばりついた蜜を、

こそぎとり、

指先が千切れるほどしゃぶっては、

右の眼のガラス玉から夕日の雫を流し続けていた。