かいわ

最近、何かひとつの物事に対して、手放しで賛成したり、楽しんだり、喜んだり、糞を投げつけてみたり、ということができなくなってきている。必ずと言っていいほど分裂した自己が現れる。
分裂した自己は、そのほとんどが、他者の考えであり、他者の目である。
こうして、今、この文章を書いている、今、に至っても首を傾げている自分がいる。そして、私にとって、自己の分裂を防ぐ唯一の方法が、その場で感じたことを、「そのまま」言葉にして、外に出しておくことだという思いが強くなっている。その瞬間に感じた自己を否定するのは、自己を失うことに繋がりかねない。自己を失うことは、すなわち、他者をも失うことだ。
あらゆる場面で、立場を選択させられる。先に立場をハッキリさせた上での物言い、考え、疑問は、向こう岸に立てば自分を突き刺す刃となる。ときどき、立場の選択にうんざりする。何がどうなって、どこがではなくて、ただ「おいしい」とだけ言えることは大切な事ではないだろうか。

 会話が減っている、どうしようもない会話が減っていっている。

 物言わぬ口の裏側で、豆粒ほどの感情がすり減っていっている。

ストーリーからこぼれる会話が人生を作るのだ。
(ここに消えない会話がある/山崎ナオコーラ) 

 会話は沈黙であってもよい。